日々の暮らし

ニーチェアエックスの
ある暮らし

伊藤 弘さん
デザインスタジオ〈groovisions〉 代表

4月初旬。ようやく春のきざしを感じるようになった、長野県八ヶ岳へ。さまざまな樹種の広葉樹がのびのびと自生する森の中に佇む一軒家で暮らすのは、デザインスタジオ 〈groovisions(グルーヴィジョンズ)〉の代表でありアートディレクターの伊藤 弘さん。東京との二拠点生活をはじめてちょうど10年。自分らしいペースで送る日々は淡々としていながらも、とても楽しげだ。そんな伊藤さんのスタイルは、家やモノ選び、デザインの仕事など彼を取り巻くすべてのことに通じていた。

伊藤さんの八ヶ岳の家は建築家の中村 好文さんによる設計。「中村さんの建築は工芸的なイメージもありますが、実際の空間のつくりはとてもモダンでそれがすごくいいです」と伊藤さん。

“東京と八ヶ岳。二拠点を往復する生活が好き”

「このあたりは本当に静かで、何にもないところがいい。きれいな別荘地のように気取っていないし気を遣わなくていい感じが、自分にはちょうどよかった。周りの森もけっこうワイルドでしょう?(笑)広葉樹だけの森ってわりと珍しいんです」と、窓の外の森を眺めながら話す伊藤さん。

八ヶ岳の森の中に、ポツポツと一軒家が点在するこのエリア。別荘地かと思いきや昭和の時代に拓かれた住宅地で、その多くが定住者なのだそう。新緑の季節になると木々が葉で覆われ向かいの家も見えなくなり、森に包まれる。訪れた時期は芽吹く前だったが、その光景を想像するだけで、最高の深呼吸ができそうだ。そんなエリアに家を建てたのが10年前のこと。

「単に家を建てたかったんです。でも東京だと土地も高くて大変だから、山の中とかでも面白いんじゃないかなと思って。もともとアウトドアが好きで八ヶ岳にはよく来ていたので馴染みもあったし、同じ長野の軽井沢などよりも湿気も少なく日照時間が長いといった気候も気に入っていました。いろいろ探していたのですが、東日本大震災をきっかけに、“早く決めていったん東京を離れよう”と思い、そこからすぐ今の場所に決めたんです」

現在は東京をベースに、八ヶ岳の家に来るのは月に2、3度。時とともに過ごし方も変わってきたが、相変わらず二拠点生活を満喫している。

家族で訪れたいろいろな場所の石が、窓際に置かれている

「周りに店も全然ないから、食材を2-3日分まとめて買って来て、仕事のメールを一気に返したら、あとはご飯作ってビール飲んで、ご飯作ってビール飲んで……それしかしていないかも(笑)。しかも八ヶ岳に住むようになってから、山にはほとんど行かなくなりました。すでに森の中だから満足しちゃうんでしょうかね?前はもっと家族と一緒に来ていたんだけど、息子が東京の小学校に通っていて、友達やら行事やらで忙しくてなかなか来られないから、今は一人で来ることが多くなりました。自分は根本的に“往復すること”自体が好きなんですよね。ずっと東京やずっと八ヶ岳だと、またすぐどちらかに行きたくなってしまう。だから二拠点生活は自分に向いていると思っています」

「特にキッチンには、中村さんの生活のルールというかルーチンがそこかしこに反映されています」と言うように、スパイス棚やお皿を立てて収納する食器棚などのさりげなくも細かい設計が印象的。それはニーチェアエックスのデザイナー新居 猛のデザインフィロソフィにも通じるところがある。

“満を持して手に入れた、「ニーチェアエックスShikiri」”

必要なものが厳選されながらも、気取らずこの家の居心地のよさに似合うインテリアが印象的な伊藤さんの家。リビングの暖炉の前に置かれた「ニーチェアエックスShikiri」も空間に馴染んでいる。しかしそれまで何度もニーチェアエックスを検討しては購入には至らなかったという。そこには伊藤さんのニーチェアエックスへの長年の想いがあった。

「ニーチェアのことは昔から知っていました。有名だし、座り心地もすごくいい。機能的だし、ある意味完璧じゃないですか。これで十分だなと思っていましたし、買いやすい金額もいい。だからいつでも買える気がして、今まで買ってこなかったのかもしれない……。でも何回も買おうとはしたんですよ。最初は20年くらい前、僕がアウトドアにハマっていた時期で、日本のメーカーですごく座り心地の良いキャンプ用の椅子があったのですが、デザインがあまり好きではなくて。この座り心地に似ているという点でニーチェアを思い出したんです。アウトドア用の生地にカスタムしようとも思ったのですが、肘かけが屋外向けでないとか、畳んでも移動にはちょっと大きすぎるとか、やはりアウトドアには難しそうだなとその時は断念。その後はリラックスチェアのジャンルで、ポール・ケアホルムやジャスパー・モリソンなど憧れの椅子を手にする度に、“ニーチェアによく似ているな”と毎回頭をよぎっていました(笑)。ニーチェアがすごく価格の高い憧れの椅子だったら逆に頑張って買っていたかもしれないけれど、そういう類の椅子ではない気がして、普段着のよさなんですよね」

そうしてついに手にしたのが6年程前。きっかけは八ヶ岳の家の畳の部屋だった。 「この家を建てた当時、畳の部屋でアウトドア用の椅子を使っていたのですが、座り心地はよかったのですが、畳と脚の相性がよくなかったんです。そのときに“あれ? もしかしてニーチェアなら畳で使えるし、家の中にも似合うデザインなのでは? ” と思ってようやく購入に至りました。ニーチェアならテラスのデッキに出して使うこともできるし、雨が降ってきたら畳んですぐ室内に入れることもできる。折り畳みのものって、構造上、手を挟んだり、危険な部分があったりもするのですが、ニーチェアには全然ない。そういうところもいいですよね。このニーチェアエックスShikiriを選んだ決め手は、実はこのソープフィニッシュ仕上げの肘かけ。この木の質感が気に入ったんです」

伊藤さんが気に入っているポイントのひとつ、ソープフィニッシュの肘かけ。6年経ち、味わいを増している。

畳の部屋以外でも、冬は薪ストーブの前、暖かくなったら外のデッキに出して使うことも多く、家族や友人もお気に入りの様子。「本当にいいタイミングで買うことができました」という伊藤さんだが、普段も慎重にモノを選んだり、モノと付き合っているのだろうか。

「家具に関しては“いつか買おう”ばかりですね。家具って一度買うと長く使うし、下手したら何百年とか……家よりも寿命の長いプロダクトだと思っているので結構慎重に考えているかもしれません。買うときはなにかタイミングとかの偶然の要素も多いかもしれません。あとは作家やメーカーが分かっているものを選んでいることが多いですね。名作とされてるプロダクトって、やっぱりどこか発見があるんですよ。そういうのって手に入れて使ってみないとなかなかわからない。逆に憧れていつか買おうと思っていてようやく手にした椅子とかでも、使ってみるとちょっと違うなということもあって。名のあるプロダクトだとリセールがきくのも大きいですね。

今の時代、ECサイトですぐ届く安価なモノと、ずっと大切にしていくモノの両極端な気がします。僕が若い頃は時代的にモノの力が強くて、デザインの資料集めと称して、あらゆる分野の名作デザインとか結構いろんなモノを細かく買っていたけど、今だと割り切って使う匿名性の高いモノが多くなってる気がします。昔ほどモノに力を必要としないというか、モノとの付き合い方が結構変わってきたと思います。だからこそ、ニーチェアの威張っていない佇まいは、すごく今の時代に合っているし、安心感がありますね」

“普通のことをちゃんとやる。「デザイン」の今までとこれから”

時代とともに生活のスタイルやモノとの付き合い方が変わる中で、デザインの仕事においては、どのような変遷があるのだろうか。1993年に伊藤さんが設立した〈groovisions〉は今年で31年になる。

「僕らがデザインをはじめた頃ってようやくコンピュータを使うか使わないかぐらいで、デザインはまだ版下入稿みたいな時代。コンピュータでデザインが可能になってからは美大を卒業してデザイン事務所で修行して、みたいなことが必須ではなくなって、いわゆる素人にもデザインが開かれたと思っています。もちろんいい面も悪い面もあるんだけど、デザインそのものを生活の知恵みたいなものとして捉えるとポジティブな側面のほうが多いような気もします。これからはクリエイティブもかなりの部分がAIに置き換わっていくと思いますが、それは必然で、むしろ早くそうなってほしいとさえ思ってきました。デザイン自体が特別な行為でなくいろいろな人の生活にフラットに浸透していく、みたいなイメージをもっていて。そういう時代の移り変わりを考えると、すごく面白い時代に生きているんだなと思うんです」

社会やデザイン業界の目まぐるしい変化を面白がりながらも、決して直感的ではなく冷静な視点で自身のデザインの仕事と向き合う姿勢は変わらない。

「学生の時から〈groovisions〉にいる主要メンバーもすでに50代。30年くらいこうやってダラダラとやっているんですよ(笑)。僕の場合、正直な話デザインが大好きというよりは、得意だから続いてきたみたいな感じなんですよね。向いていたのかもしれない。だから、あまり作家性にこだわりがなくて、いたってシンプルに、普通のことをちゃんとやる、みたいなこと続けてきたように思っています。僕らよく言うんですけど、〝明るくて楽しげで健康的なもの”を作ろうって。とても間抜けに聞こえるかもしれませんが、意外と大切だし実際難しい。人をおどかすようなショッキングな表現はしない、とか、世間にネガティブな空気感を撒き散らさないとか。すごく効率は悪いんだけど、表面だけでも健康的でいることは、ある意味長生きする秘訣な気がしていて。“みんなほんとはこういう方向を欲してるじゃないかな” ってことをずっとやってきた感じです」

独自の感性が試されるグラフィックデザインという領域の中で、自らを表現するキーワードを言語化したり、決めつけるのは難しい。しかし“明るくて楽しげで健康的”という〈groovisions〉のポリシーは、彼らのデザインや人柄によく似合い、そして八ヶ岳で触れた伊藤さんの想いや暮らしにもつながっていく。30年を経て、「少しずつまとめの時期に入っていると思う」と伊藤さん。これから先のビジョンもあるようだ。

「昔は音楽とか、カルチャー全般に関わる仕事の方が多かったけど、最近は堅い会社や、大手企業の仕事とかも多くなりましたね。でもこれ以上組織を大きくすることは多分ないし、少しずつ今までの行為を何かいい形にまとめていきたい。展覧会や本みたいな感じでもいいし、何かしらのプレゼンテーションを通して、自分たちがやってきたことを残したり、人に見てもらうようなことを、もうちょっとやりたいなと思っています」

Hiroshi Ito

1963年新潟県生まれ。1993年に京都でデザイン・スタジオ、groovisions設立。ピチカート・ファイヴのステージビジュアルを手掛け、注目を集める。以降、ミュージシャンのCDジャケットやPVのアートディレクション、さまざまなブランドのVI・CIなど、グラフィックやモーショングラフィックを中心に、音楽、出版、プロダクト、インテリア、ファッション、ウェブなど多様な領域で活動する。

groovisions http://groovisions.com/